あなたが月を指差せば、愚か者はその指を見ている

日々起きたこと、見たこと、考えたこと

小さなできごと

もう10年ですね。

10年前の誕生日の前日に息子が保育園で感染性胃腸炎になっちゃったんです。ロタウイルスワクチンがまだ認可されてなかった世代でした。

で、息子がそのまま自宅にいた誕生日は締切前日で結局日中仕事にならず徹夜になりました。その誕生日翌日、つまり徹夜明けの午前中にメールで原稿提出したんですけど、夫にもう耐えられないから有給でもとって息子を見ててほしいとお願いしたんです。で、実際、ありがたいことに彼はそうしてくれた。なので、私は午前中に眠って、昼に起きたわけですが、寝不足がたたって目が痛くて、午後イチで眼科に行きました。お医者さんは一言「ああドライアイですね」と。

薬を処方してもらった調剤薬局のテレビでは「徹子の部屋」が流れてました。当時テキトーいいかげんキャラでリバイバル的にブレイクしていた高田純次が自分の初主演作の紹介してるのをぼんやり見ながら、「ああ、明日は土曜日だから息子も体調戻ればケーキぐらい食べに行けるかな」なんて思ってたんです。そして、帰宅してほどなくして、結構大きな長い地震。初めてかな、家の外に出て状況を確認するほどあせったのは。

でも私達は家族で全員自宅にいたんだから悪運が強いとしか言いようがありません。今日は息子もゲロ吐いてないしきっと大丈夫と思ったんです。でも、お子さんたちを保育園にお願いして仕事に行った人たちは大変だろうな…といっても、すぐに帰ってこられない親御さんたちのために保育園に行って代わりにお子さんは預かると申し出られる状態ではないなあなどと思っていました。

気がつくとテレビでは津波の映像が流れてて、現実のものとは思えません。実感がわかない。

はたと、我が家から歩いて30~40分ほどのところに週何回か働きに来ていた横浜の私の母は大丈夫なんだろうか?って思ったんです。金曜日は勤務日だったかも。なんとか連絡をとりました。

母は週に何度かうちから決して遠くないところに働きに来ていたのに、お互い東京で日中に会うことはありませんでした。私は仕事柄時間の融通が利いたとしても、母がそうはいかないから。

横浜方面の電車はずっと止まったまま。そこで母に「うちで良かったら泊まっていって」と申し出ました。しばらく迷った後母は「悪いわね」と言いながら来ることになるのですが、母が後にも先にも我が家に宿泊したのは10年前のあの晩だけです。

うちっておそらく3人家族としては一部屋分狭いんですけど、家が狭いってこういうとき、困った身内すら気を遣わせずに助けることができないんです。

私としては母にそれでも翌日も泊まってもらってもよかったけど、翌朝、東横線動きはじめたのを確認した母は、にっこり笑って夫にお礼を言って帰っていきました。どちらかといえば文句垂れで愚痴っぽい母が我が家にいたあいだ、あんなにニコニコしてたなんて相当なことです。きっと私の徹夜明けのせいで息子の面倒を見るために有給までとってくれた夫に、相当気を遣ってたのだと思います。父が亡くなってからも11年たっていましたが、母は一人で自活するために、もうすでに70歳になろうとしていたのにまだ働いていました。父は自営業だったので年金が乏しいんです。なので、私たちの家から比較的近い横浜に住んでいようと、たとえば私の息子を預かって私たちの子育てを助けるとかそういうことを、したかったとしてもできたことはありませんでした。やっぱりそれも負い目だったのかもしれません。

あの日母と同じように東京に働きにでていた横浜市民はあっけなく止まってしまった電車に乗れずに何時間も歩いて帰宅したそうです。横浜在住の弟もウォーキング用の靴をはいていなかったので歩いて自分の家に帰るのがそれはもうきつかったと言っていました。だもの、パンプス履いてた女性はもっと大変だったと思います。

きっとそういう被災とまではいえない小さなできごとを今日、東京や近辺に暮らす人たちは思い出すのでしょう。といっても、本当に苦労した被災者ではない以上、きっと頭の中で遠慮がちに思い出すのだろうなと思います。

私の40代もそんな小さなできごとから始まりました。

高田純次の映画は震災後の日本を覆いつくした空気にとても合わずにコケてしまったようですし、彼のブームもそのまましぼんじゃったかもしれません。でも、昨日から始まった私の50代では…そう、あの高田純次のように肩の力が抜けたノリで、ちょっと不謹慎なことであっても少しは言えちゃう「ゆるい10年」を過ごせればいいな、と願っています。

震災の4か月後の夏に、少しだけ人生観変わっちゃった私たちは「会いたい人には会えるうちにあっておこう」などと思って、10年ぶりにアメリカとカナダの友人たちに会いに太平洋をわたってあちこち訪ねました。

で、私が誕生日を祝い損ねたことを知った友人の一人がサプライズでケーキを用意してお誕生会をしてくれたんです。あのときはうれしかったな。