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「ジェーンとシャルロット」「エリザベート1878」と子どもの死(ネタバレあります)

最近劇場で観た表題にある2つの映画は50歳を超えた私にはかなり心につき刺さるものがあったので、忘れないうちにざっくり書いておこうと思います。でもネタバレと言えばネタバレしてるので(そんな部類に入らないと私は思いますけど、でもネタバレかなあ)、これからこの2つの映画を予備知識なしで観たい方々は気をつけて。

 

 

 

 

「ジェーンとシャルロット」ではジェーンがシャルロットに「死んだ子どものほうに生きている子どもよりも気持ちが向いてしまうのかもしれない」と認めるシーンがあるけど、そのテーマは「エリザベート 1878」でも大きく扱われている。

当時は一般的にも子どもは必ずしも長生きするわけではなく、ましてやあの時代のヨーロッパの王族は親戚同士で結婚をくり返すものだから身体が弱い人も多かったといわれている。だから王室の女性に対しては「数を産めば多少そのなかの誰かが死んでもOK、むしろ誰かが死んでも大丈夫なようにたくさん産め」的に見られがちだったはず。王室では今でもそれが基本路線なのかもしれない。

しかもハプスブルク家の名君といえば多産だったマリア・テレジア。そのせいかはわからないけど、エリザベトが皇帝フランツ・ヨーゼフの母親には嫁としては全然気に入られていなかったとしても、最終的に皇妃として迎えられることに決まった最大の理由は「めちゃ健康(そう)だから」。だから子どもを3人産んでも*1そんなの足りないと思われていたはず。ましてや跡継ぎにできる男子は1人だけなのだから。

実際、エリザベト自身そんなプレッシャーを感じ続けていたのだろうというのは、皇帝に当てつけで「私はもう産めないから」とエリザベトが言うシーンがあるのでそこでわかるしかけになっている。

そんなエリザベトが40歳を迎え、そうした子どもを産むことも含めて一番期待されている「国民の前で、国民のために、美しく、健康そうに公務をする」ことが精神面でも身体面でもできなくなってしまって、完全に鬱状態になってるという出だしからこの映画は始まる。でも鬱状態だろうと、もともと乗馬を始めとしてスポーツ好きで身体を動かすことは好きだというのはわかるし*2、地位は高いから旅に出るといった「わがまま」は通るけど、心理的にはもう無理、アップアップという状態で、もがき、そこから自分を解放する1年が「エリザベート1878」という映画。もちろんヴィッキー・クリープスの演技の巧みさは言うまでもない。だいたい私はこの写真、たしかル・シネマ渋谷宮下が開館してからなにかにつけてネットでも見てきたのに、それがヴィッキー・クリープスだなんて気づいたのはほんの10日前だったし。ほんとにすごい。

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エリザベトは病院への慰問の公務はそれでも真面目にやる人だったらしく、映画でもそのように描かれている。そんななか、慰問先の女性専用の精神病院で「ほかに子どもが3人いるというのに子どもを1人失っただけで頭がおかしくなった」と医師に紹介される女性が登場。でも、実はエリザベトも1人皇女を失っていてそれをものすごく悔やんでいる。心にぽっかり穴が空いている状態。しかも他の子ども2人、特にもう1人の皇女はまったく自分と価値観が違う子どもに育っている。愛そうとはするものの上手くいかず、自分がその生きている子どもたちに理解されていないことも感じている。

おそらくその病院で「狂人として扱われてしまう女性」と、鬱屈しているエリザベトの違いは皇后であるか平民なのかという立場でしかない。

けれどもこれまた皮肉なことに、自分を解放するきっかけとなる出来事がその自分を理解しない、そりが合っているようには見えないもう一人の皇女の「誤解」から着想を得るところがまた見どころ。つまり、鬱屈したエリザベトを解放するきっかけになったのは失った娘ではなく、自分を理解してくれないもう一人の生きている娘であり、その娘にはこの先も理解されないだろうということに折り合いをつけた、というものすごくよくできたプロットになっている。なお、だからといって生きているほうの娘を愛していないというわけじゃない。エリザベトはもう一人の皇太子からも誤解はされているけれど、それでも二人の子どもを愛していることには変わらない。

 

要するに、自分の子どもにすら、つまり「この世の誰にも理解されなくても別にかまわない」と折り合いをつけないと自分の心を解放することなんてできないんだよね。

 

さて、両方の映画で私が気づかされたことがあるならば、それは、親は1人の子どもの死*3に向き合って折り合いをつけられなければ、他の子どもにも向き合うだけの心の余裕はない、という一人の親としてはおそらく当たり前のこと。

私が「ジェーンとシャルロット」を観たときに、なんてシャルロットは優しいんだろうと思ったのは、傷つきながらも彼女自身3人の子どもの親として、姉ケイトの死(おそらく自死)から立ち直れない母ジェーンに対して「自分のほうを向いてくれない」と糾弾しているのではなく*4、根底の部分でとにかく母親を理解しようとし、折り合いをつけようとしていたところ。あのシャルロットの優しく、辛抱強い姿勢は、子どもとしては50歳過ぎたとしてもなかなかできないなと。

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そして実際、ジェーンは生き残ってたシャルロットをいざというときの頼りにしていた。頼りにできるというのは、無意識であれ自分がその生きている娘のほうに救われているとわかっているから。だからシャルロットがしっかり折り合いがつけられるまでジェーンには長生きしてほしかった。でもシャルロットなら、父親のセルジュに対してもそうだったように、時間をかければきっとだいじょうぶだと思う。

親は、つい目の前にいる子どもに対して、あたかも自分の分身であるかのように自分と意見が合って当たり前だと思いがちで、実に身勝手なものだけど、結局親も子どもも「別に理解されなくてもかまわない」、つまりは象徴的な「死」と折り合いをつけないと、先を見つめることも、身近にいる人の大切さもわからないんだろうなという気づきを私は得たわけです。

これでこの記事はおしまい。だから有料部分に追加部分があるわけではありません。ですので、ここまで読んで「もしよかったら」ということで設定しているだけなのであしからず。

*1:史実では4人?

*2:シェイプアップのために体操の吊り輪みたいなのが出てきてそれで腕で逆立ちやってたエリザベトが降りてくるシーンと、皇帝と口論になったあとに衝動的に窓から飛び降りても死ぬどころかちょっとした骨折で旅行できるほど動けてしまうシーンはある意味、人生の皮肉で笑いどころ。あの示唆に富んだイタリアのシーンも肯定的なほうに私は100円賭けます

*3:死は極端な例だけど、自分にとって受け入れがたい子どもによる不条理

*4:なお、シャルロットがジェーンを糾弾しているように見た人は多いのかもしれない。実際、一度ジェーンはそれでシャルロットに撮られること自体拒否してしまったらしいけど、私はあの映画を見てシャルロットがジェーンを残酷に責めているようには見えなかった

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