あなたが月を指差せば、愚か者はその指を見ている

日々起きたこと、見たこと、考えたこと

カルトとネットワークビジネスと推し活

もちろん私は新興宗教嫌いだし、信じていません。でも、人間あっけなくそういうものに引きずり込まれ、のめり込むというのはすごくわかる。あれは依存症の一つだから。

だから「自分は○○だから無縁でいられる」とキリっとしてられる人を見ていても危ういなあって思うのです。

 

目次:

 

カルトにはまる祖母

私の祖母はすごい人です。戦後蒙古から幼い伯母と母を連れて日本に引き揚げ、大陸で留用されて行方知れずだった土木技師の祖父がそれから10年後にやっと手紙をよこしてひょっこり帰国するまで、自分の実家に母子3人で居候させてもらうことと引き換えに数々の事業のヤバいほう*1を全部受け持って、そこの親分にも一目置かれたほど度胸のすわっていた人でした。

祖父は帰国後、幸いにしてもとの職場、つまり某県庁に昔の同僚たちの嘆願みたいなものもあり、そのおかげで専門職中途採用で就職し直すことができたそうです。なので、祖父母と伯母、母はそこで新生活を始めたのですが、祖母はその給料だと心許ないからと株取引でもお金を作って家を建てたほど目が利く人でした。しかも祖父は10年分は仕事していない扱いだから恩給もその分少なくなる、と必死だったみたい。

けれども弱みというか彼女にはどうにもならない嗜好がありました。オカルト趣味だったんです。いまでいうスピリチュアル系? とにかく占いが好き。それが転じて、まずは創価学会、それからもう一つ名前も忘れた得体の知れない新興宗教に入信しては大変な思いをして脱会して、今回こそは本物と熱心になったのは真如苑。私は物心ついたときから祖母がお施餓鬼のお布施をものすごくしているのを知っていました。といっても、祖母は金を稼ぐ苦労と金の大事さは身に染みてわかっていたから、破産するほどお布施をしていたわけではないです。でも、今時の「推しに対して『財布のひもが開きっぱなし』」程度には、お施餓鬼供養をしていました。

そんな祖母に対し、伯母夫婦はうまいことおいしいところどりでそこそこお布施をして祖母とのいい関係を保っていたようですが、母はものすごく反発して、新興宗教だけは絶対に受け入れなかったし、ボロクソに言っていました。そりゃあそうです。夫婦仲がうまくいかないのは信心が足りないせいだ、とか、私に死んだ父方の親戚の誰かが取り憑いていて私に間違いなく不幸が起こる、とか言われるのは耐えられないじゃないですか。

それでも母は父と折り合いが悪くなっていて祖父母を「必要」としていたから完全には縁を切りませんでしたし、そういうことなら、といって祖母は「いたらない母」の分もお施餓鬼供養のお布施をしていたそうです。実際、私が高校生の時、AFS交換留学でカナダ・ケベックに行ったときも、祖母から謎のお守りを持たされましたし。私が大学入ってから祖母は「うちの孫は外国語が得意で上智大学に行っている」と近所に自慢していたけど私には「キリスト教はよくないよ」とこっそり耳打ちしていましたし。

ネットワークビジネスに夢を見る母

でも、そんな祖母にどんな言われ方をしようとカルト宗教の誘いと教えはすべて突っぱねてきた気の強い母も、なぜだか昔で言うネズミ講、その後、ネズミ講ではないということでネットワークビジネスと呼ばれるようになったものにはめちゃくちゃ弱かったんです。それもわかるの。

まず環境の問題。私が十代のころは、もう父は家に居着かなくなっていましたが、横浜で小金持ちな生活をしていたというのは大きいです。(父も)母も着る服はセンスがよくて安っぽいものは着ないし、家の内装も趣味の良いデザインものには金を惜しまなかったから、金にうるさくない人として目をつけられやすい。色々な類いのビジネスにめちゃ誘われていました。だから大倉山の「お友だち」がタッパー営業するといえば、家を使わせてくれということで沢山の人がやってくるし、それから色んな化粧品の会員販売もよく実家でやっていました。自分でも売ると一部利益がとれるとかいうシステムのものね。そしてわが家に来る人たちもきっと少し余裕がある人たちだから、真如苑創価学会じゃないにしても、神道系の大山ねずの命の信者ですとか、キリスト教系ならエホバの証人の信者ですとか、ほんとカルトかネットワークビジネスに関係ない人っているのだろうかという状態でした。

お金がそこそこあっても父と折り合いが悪い以上、いつそんな豊かな生活ができなくなるかもわかったものではないといった恐怖心が母側にはあり、誘う側としては「お金にがめつくなさそうに見える品の良い(がめつくなさそうというのは実は違うんだけど)奥様」はそういう人たちのイメージアップにもなるため格好のターゲットになる。

で、その極みが私が大学生の頃に「人生が変わる!」と母が言い出したアムウェイ

母に罵られるのに疲れた私

悪いことに母は「自分にはいい人脈がないから大学に行っているりえちゃんが*2誰かお友だちを連れてきて。だって誰にとっても悪い話じゃないし、いやなら断ってくれればいいのだから」と言うんです。母は母で、祖母のみならず伯母や近所の人々にはアムウェイ製品を勧めて買わせることになるんですけど、これまで書いてきたように、みんなある意味カルト系や訪問販売系に親和性があるし、そこそこ小金持ちで品がよいから1度は「お付き合いで」、ビジネスをやらないにしても商品を買ってくれるんですよ。だから私はのちに逆に母の知り合いの保険の外交やっている人から保険を買うことにもなるんですけど…

そんななか、祖母は母がそんな調子なので心配したのか、ある日ぼそっと電話で私に「りえちゃんの結婚資金として貯めておいた金が300万円ほどある」と言い出したんです。そこで「結婚話が出てくるのに嫌気がさした*3」私は「結婚資金はいらない。そのお金ちょうだい。私はフランス語学科で勉強していても、フランスに一度も暮らしたこともなければ行ったこともないから少し生活してみたい」と答えました。でも、フランスに行きたいって言った数あるうちの理由の一つは、アムウェイにズブズブ浸かって商品を買いまくり、私の友達を紹介しろ、成功のために協力しろとうるさい母とその上にいるディストリビューター(以下DBと略します)と離れたかったことです。

すると数日後祖母が「フランスに行ってもいい。その代わり、その頭でお母さんを助けてあげなさい」と言い出しました。すると私も引っ込みがつかなくなり、実はそこまでフランス好きでもなかったのですが*4、フランスに行くことにしました。

だってこの頃にはもうアムウェイのDBたちが、わが家の内装がおしゃれで感じいいから対外的なイメージがよくなると思ったらしくて、デモンストレーションやるのにうちを使いまくっていたからです。とにかく、カルトではなくても特にネットワークビジネスで一番利用されやすいタイプは少し生活レベルが高そうに見える見栄っ張り。もうアンダーライン引いておきます。とにかく母はびったんこのタイプだった。

高校と大学で1年ずつ休学していたらバブルはじけて就職に苦労する私

で、1年弱、祖母の金を使ってフランスに逃げていた私ですが、ちょうどリレハンメル五輪の頃でしたかね、帰国したら就職氷河期始まっていました。真面目そうな人たちでも就職に苦労したのですから、どこか不真面目さを醸しだしてしまう私はどうしたらいいのかわからない。一応大学の就職指導部ですかね、そこの職員に「好みなどつべこべいわずに片っ端から就職試験受けろ」と言われ、「フランス関係なら月給14万円の輸入本取次の会社なら推薦状書ける」と言われました。でも、調べると横浜市役所の大卒新入社員の給料が一応20万円と言われていた1994年(その後、とくに給料は上がってないかもだけど)。見栄っ張りの母のことを考えるととてもそれじゃ母を納得させられないと思った私はお断りして、就職活動しまくりました。

でも全部面接は落ちる。見た目からして当たり前です。

母がアムウェイの化粧品がらみでカラーコーディネートした結果、私の顔色に合う色はクリーム色だと言って譲らず、しかも髪の毛も少し明るくした方が印象がいいからとカラー入れさせたものだから、私、クリーム色のスーツに茶髪で就職試験受けに行ってたんです。もしかしたら1994年度でこれが男子だったら、その気概と傲慢さを買ってくれた企業は一つぐらいあったかもしれません。でも、女子となるとよほど天才的かよほどのコネがないと敬遠されますよね。しかも私、普通にしているつもりでも、どこか人を食ったような不真面目さを言動から無意識に醸しだしてしまうんですよ。最悪の女。

先に卒業した大学同期の友人がそんな私を見かねて「りえちゃん、リクルートスーツ貸してあげるよ。もう私は着ないし、あっても邪魔だから」と濃い紺色のちゃんとしたスーツ貸してくれたのが7月半ばごろ。ありがたかったです。その優しい友人とは今でも年に1度の年賀状はやりとりしています。

なお、横浜市役所の職員募集試験もペーパーテストは通りましたが面接では落ちました。そのとき「あなたは横浜のことをわかっていない。あなたみたいな『優秀な』人にはとても勤まりませんよ」と嫌みを言われました。ひどくありません?だってああいう募集に来る人って横浜市民とは限らないんですよ。むしろ公務員になりたいからといって、いろんな場所の公務員試験受ける市外の人のほうが多いかもしれない。でも私は一応、20年以上横浜に暮らして、両親だって税金納めてきたのに、その役人から「あなたは『横浜のことをわかっていない』。あなたみたいな『優秀な』人には『勤まらない』」と「明らかな嫌みとして」言われたことに、ちょっとむかっとしたんです。その時からもう私は横浜とは心の縁を切りました。横浜のガラが決して良くないことはわかっているし、幼稚園はすべて私立しかなく、公立中学なんて給食すらださないほど変なところにケチくさいのもわかってる。つまり見栄っ張りで上品ぶってるこんな横浜いつか出て行ってやる、と思いつつ、しばらく住み続ける羽目になりましたけど。

とうとう心がゆらぎ、母親に承認されようとしてしまった私

ありとあらゆるタイプの会社に就職を断られ、秋まで就職先を決めることができず明らかに滅入っていた私に、「常識的ではなく」「博打勝負的」な母は、「りえちゃん、もう就職活動お休みしなさい。卒論もあるんでしょ? そんなに毎日毎日プライドを傷つけられつづけることはない。なんとかなるから」とこればかりは「本心」で「心配」して言ってくれました。

そう、本心から心配してくれた言葉だったからやばかった

その母の本心からの優しさに泣きそうになって私は思わずこう答えてしまったんです。「いざとなったらアムウェイやるよ。だって誰でもできて、誰でも成功できるんでしょ?」と。

母は激しく喜びました。でもアムウェイするにしても資金がいる。この頃には家には居着かなくなっていた父の体調も悪くなっていたらしく、なんでもそのせいで事業も上手くいかなくなっていて、私と弟の大学までのお金は出すことを条件に家族3人分のいわゆる生活費は入れてもらえなくなっていました。なので、母は、昼間は実家そばの歯科医院の受付兼雑用のパート、そして夕方から終電前まではパチスロ景品交換所で景品交換(後者は当時母の上の上にいたDBの親戚の事業だった)で働きながらアムウェイで成功して楽になって暮らす夢を見ていました。ましてや「賢い」娘もアムウェイをやると言っているんだから有頂天になっていたと思います。

…ここで一つ余談。

少し話それますが、景品交換所の人たちはアムウェイには無縁でした。やる必要もなかったのでしょう。だから親戚の家業を恥じていたDBが母に「もう私はここで働かなくてもアムウェイで暮らしていけるようになったので、あなたもそれまでこの仕事でつないでおく?」と勧めたわけです。そして、母がシフトに入らない夜を大学卒業前の私がバイトとして受け持っていました。断言できます。後にも先にも私が働いた場所のなかで、この景品交換所の人たちがおそらく最も「社員思い」の人たちだったということを。

たしかに消防法も守っていないような場所に交換所はあり、火でもつけられたら死ぬリスクもあるわけです。でもちゃんと彼らは、それをほかのパートやバイトの水準以上の報酬という形で支払っていてくれましたし、いわゆるボーナス時期になると「少しなのに悪いね」と言いながらその月のバイト代と同額どころかそれ以上のお金をくれましたし、職場環境が環境だから危険な目に遭いそうになったらどうすればいいのかというマニュアルもものすごく徹底していました。

もう就職なんてしないで「ずっとここで働ければいいな」と思ったほど。だって誰にも頭を下げなくてすむもんだもの。景品交換所のの人たちは「こんな仕事をやってくれるなんてありがたい」とまで言ってくれる。そして「お金を持ち逃げしなさそうという意味で、この仕事は人を選ぶから」と妙に私たち母子のことを信頼してくれていました。景品交換で買い取り額が違うと文句言う人だって、いかにもその仕事をやりそうもない私の顔を小さな受け渡し穴からのぞき込めば、おそらく経営者の娘だぐらいに勘違いしたのでしょう、逆にすっこむんですよ。とりあえず、名前や連絡先を聞いて、「店閉めるときに上司と一緒にお金数えて間違っていたら支払う」といえば引き下がるの。ヤバいでしょ?

でもとにかく、人は素性や生まれ、育ち、職業、国籍でその人のすべての行動や信条が決まるわけでもなく、結局その人個人の心根、そして他者への思いやりとか態度や節度(距離感)がすべてなんだと、あそこで働いた経験は私のその後の考え方に間違いなく影響を与えました。その溝口の店は駅前整備のために私たちが働きはじめた2年後だったと思いますが、店じまいして退去しました(ですので母はまた職替え)。今から考えるとそもそもからして、戦後ヤミ市やってたとかでなんとなく空いてた土地に強引に建てていた店だったのかもと思います。そういったことすべて含めて、人間って、言うこととやることが、なかなかその人の素性の型にはまっているとは限らないんだよなと思うようになりました。

なぜかネットワークビジネスではそのイメージアップの象徴としてモテたかもの私。

卒論を提出し終えた私は、やると口を滑らせてしまったアムウェイを始めるにしても資金がいるので、また仕事を探し始めました。そうしているうちに、阪神大震災が起こり、関西出身の友達や後輩は身内の安否確認しに帰ったり、なかにはボランティアにも行く人もいましたが、私は景品交換所でとにかく生活費。でも、景品交換所には未来がないとすでに知っていたので、4月から働ける場所はないかなと新聞の募集広告ばかり見ていました。まだ更地が多かった隣町の新横浜にポツポツとビジネスビルが建つようになっていたころです*5

そしたらある特許事務所が新橋から新横浜に移転してきて英語分かる事務正職員(経験なしでもOK)を募集している広告を見つけたわけです。これまでのあの新卒としての就職活動の難しさとは正反対にあっさりと採用されました。新卒として就職活動しなければ、ただ自分ができることとできないことしか聞かれないからラクなんですよ。志望動機とか抽象的なやる気とか、御社の良さはこうだと思うとかそういうアピールなんて向こうは関心を示さない。仕事やるかやらないか、それだけ。徒歩15分、自転車ならもっと早く行けるんだもの、悪くない話です。

なので、大学卒業前の2月からは卒業後の3月末までは時給バイトとして週3~4日ほど働くことになりました。その間に地下鉄サリン事件がありました。歯医者に寄ってから来るといって遅刻してきた先輩が「築地あたりでえらいことが起きてる。テレビではみんなが倒れていた」とか言い出して、事務所のテレビつけたらあれですよ。

ところが4月から正職員になると給料が想定していたよりも安かったんです。やばい、これで税金とか社会保険料払って、母にわが家の生活費の一部と弟の美大受験予備校代(私は大学行ったり留学したりした負い目があったから負担しました)、そしてアムウェイ資金も渡したら私には何も残らないというレベル。服は買えずに羽振りのよかったときの母の服を着てましたし、もう、ほんと自由になる小遣いほとんどなしとかいう世界。

で、娘さんもアムウェイに興味があるということで、母のグループっていうの?その若い世代のDBたちが私の教育に熱心になるんです。母そっちのけで私の方が脈があると思うからなのでしょう。でもどこかで私は「信じ切れない」。その界隈の若い人たちと沢山お話しましたが、つまらなかったのです。

こう言ったら申し訳ないし、だからこそ私は不真面目や傲慢さを身体から放射してしまうようなんですけど、知的好奇心がまったく刺激されなかった。だから私が誰かにアムウェイの話を聞いてくれないかと声をかけるとき「比較的自分とは関係の薄めの人たち数名」にしか結局声をかけられませんでした。それでも友達ではあったのだから関係が切れてしまって寂しかったですよ。

でも私が恵まれていたのは「声をかけた人たち全員、見事にアムウェイの話に乗らなかった」こと。関係が完全に切れなかった人たちは「私の母や私のことを気の毒に思って、一度だけなら話を聞く振りをしてくれた」人たち。で、断られたら私は二度とその人にはその話を出さなかった。

なぜならどこかでこの商売は「筋が通っていない」と自分の頭でわかるんですもの。私自身が熱心になれるわけないじゃないですか。なので、色んな若い人向けのワークショップに母に行かされたけど、もはや潜入取材しているような感覚になっていました。だんだんそのグループのDBも「こいつはダメじゃないかな」と薄々気づいていたんだと思います。

それでも高額商品を「勉強のために」に母が買うし、今度は弟の専門学校代も出さなきゃと思うから特許事務所の給料じゃ追いつかない。そうこうして1年経った頃、また新聞で「フランス語を使った貿易事務」を県内で募集しているのを見つけました。経験は問わないのに、年俸(をしっかり広告に出していたし、あれは嘘じゃなかったのがすごい)見る限り、当時の2倍超ですもの、飛びつきますよ。母も、もとはといえば、あの「貧乏くさい生活をしたくない見栄っ張りだから」ネットワークビジネスに飛びつくわけで、ギャラの高い転職には大賛成。

で、その面接に来るようにと言われた電話が実家にかかってきたとき、私はちょうど富士山のそばでアムウェイ若者向け泊まり込み研修にに行っていました。で、母から連絡を受けた私は、ここに来るのに使った実家の車の鍵を、私を連れてきたDBたちに渡して「条件がいいので今から電車で帰って就職の面接受けてきます。車はあなたたちが帰るのに使っていいから、あとで母に返してください」と言い残して出てきました。「もしそこで就職きまっちゃったら、りえちゃんアムウェイができなくなる」と引き留められましたけど、振り切りました。

新しい会社は今で言う「ブラック」的な労働条件の会社ではあって、土日どうにか休めるのが精一杯。有給なんていうものは制度としてあるのかどうかも不明(辞めたときにあったことを知った)。でもそのおかげでアムウェイ活動なんてとてもできる状態ではなかったので「私は」縁が切れました。

母は私が安定したいい給料を稼いでくるので、それをアムウェイの新作にぶっ込んでいましたけど、もうこの頃にはお互い文句は言いませんでした。私も多少は友人と遊びに出かけたり、欲しいなと思うモノを買う余裕もできました。でもそんな平穏な日々も次の長野五輪が来た頃にはまたぶっ壊れてしまって…

だって私だって結婚したかったんだもの

私が学生時代から付き合っていた先輩の男性と結婚して、ちょっと海外赴任に付き合ってくると言ったときの母のパニック状態はものすごいものでした。「私を見捨てるのか」とまで言われたんです。だって弟だって4月から専門学校を卒業して就職決めていましたし。「いやもう私は義理も義務もこの年齢にしては十分果たしたでしょ」っていうような気持ちだった。弟の就職先はその業界では紆余曲折あったもののかなりの大手の企業です。よく就職できたと思います。なお弟は私と正反対で身体から「人当たりのよさを放出する」タイプ。なので専門技術はもとよりその人柄でものすごく得をしていると思います。人を不愉快にさせない言い方や態度をめちゃ心得ている。今は大崎あたりのよさげなビルで働いていると聞きました。

とにかく母は「あなたの性格ならば、結婚は絶対に失敗する」と私に断言しました。まったく母は愚かですよ。「だったら意地でも失敗だけはするもんか」って思うでしょ。実際、結婚してあと1年もしないうちに銀婚式です。夫婦お互い無事であればね。

その時なぜ私はこの人と結婚しようと思ったか、少しだけ例を挙げると、

  • この人だけは私を(金銭的なこともそうじゃないことも含めて)利用したことはなかったし、これからもないだろうと思えたこと。
  • 私を金銭的な理由で利用する必要はなさそうな仕事についていたこと。むしろぜいたくしなければ私のことも食べさせることまではできそうな仕事についていたこと。
  • これまで私が苦労してきた怪しい儲け話とか宗教話とかすべてはねのけそうな頭の良さがあったこと。また、相反するように見えるけど「理屈抜き」の頑固さがあって、いざとなれば「容赦なく」冷淡に他者に対して、つまり私の母に対しても対応することができること。
  • そして性格が私に合ってたから。彼の毒のあるユーモアが大好きだった。
  • ほかにもいろいろあります。今でも夫のことは大好きです。

なのでむしろよく夫側の親族が私を認めたなと思うのですが、夫側の親族は徹底的に私の親族とつきあいを切っています。というよりもぶち切れたのは私の母のほうが先で、つまりつきあいを切る火蓋を切ったのは母のほうなので、当然です…。

でも、夫の海外赴任から帰国した直後ですかね、はあ、こういうことなのかと分かったことがあります。

みんな見事に「さあ~」っと引き潮のように去っていく…借金が発覚すると。

持病が悪化し、将来にも自分の事業にも光を見いだせなくなった私の父はある日、自分の事務所で自殺しました。遺書によると、どうやら身体がまだ動くうちに人生にけりをつけてすべてを清算したかったそうです。第一発見者は父がお付き合いしていた女性です。父は、母と弟がまだ暮らしていた大倉山の実家を抵当に入れて事業資金を捻出していたので、その死をもって、差し押さえ競売が確定になりました。そんな額は一気に支払えない母と私と弟だったので。

そこからのドロドロはもう洒落になっていないし、それなりに面白い話ではあるとはいえ、これまで以上の長話になるのでここでは省きます。

ただ、限定相続してから実際に実家が競売にかかるまで、つまり20世紀から21世紀の変わり目だったのですが2年かかりました。どうせ失われる家の競売の順番待ちに2年かかるんです。その間借金に関してはなにも動かせず支払い停止になるので、利息だけが年16%だったかな、加算されました。理不尽かもしれませんね。Twitterがその頃あったなら匿名で叫んでいたかも。

それほど20世紀末の山一証券の破綻とか長銀の破綻といった金融危機って大きかったのだと思います。地方の銀行も破綻するか合併ばっかりしていきました。バブルの頃、うちの羽振りが良かった頃、父はよく私にこう言っていました。「いらないって言うのに銀行は『融資させてくれ』といって金を貸したがるから借りることにしているんだよ」と。以降銀行は「貸し渋り」、企業は「内部留保」に走るきっかけになったのはこの20世紀末の金融危機でえらい目にあったからだと思います。

 

で、実家が競売にかかるまで、要するに借金を清算するまで、それまで母に寄ってきていたあんなに沢山の「友達」のほぼ全員がまったく連絡をよこしてこなくなりました。ましてやアムウェイのDBなんて父の死以来、私は見かけていません。話も聞かなくなった。母からもアムウェイの話を次第に聞かなくなりました*6

そして伯母夫婦もそして祖父母も母に会おうとしなかった。祖母はそれでも電話をくれましたが、私たちの金銭事情などあえて聞こうとしない。どうも、それを聞いたら金を要求されると心配した伯母夫婦がその話題を出すなと口止めをしていたようです。信仰心が篤いなんて伯母夫婦は褒められていたし、祖母だってああやって真如苑に入れあげていましたけど「本当に金がない人、金が見込めない人に対しては」どんなに信仰心が篤いと言われる人でも「冷たくなります」

ちょうどソルトレークシティ五輪が始まるころでしたかね。ヤグディンプルシェンコと本田さんと優勝できなかったミシェル・クワン以外は五輪の記憶なんて完全に欠落しています。日韓W杯の頃にはもう大倉山の実家は他の人の手に渡り、そこから遠くない横浜でもどちらかというと下町のほうに母は引っ越しました。それから母は祖父母を引き取って働きながら介護したのは、何がなんでも遺産だけは確保したかったというのもあるかもしれません。そして実際に母は祖母の株取引の才覚を受け継いだのか、持ち金をこまめに運用して生活費程度は捻出し、弟からボーナス時期に少し支援してもらい、自営業者の妻であったためうっすい年金(年金支払い満期3カ月前に父は死んでいるので一時金しかもらえず加算なし)とともに今は無事に自分の生活は成り立たせています。

母はアムウェイからとっくに退会しました。

ここまでふり返ってみて、ふと「推し活」に思いを馳せた

トリノ五輪の頃に生まれた息子が、ある2次元を元にした3次元のアイドル?に熱を上げてしまい、これまで義理の両親からもらってきたお年玉とかお小遣いをぶっ込むようになっています。なんだかちょっと恐ろしさを感じるんです。

カルトだのネットワークビジネスだのお金をつぎ込まずにはいられない恐ろしさを身をもって知っている私にとって、じゃあ「推しに対して『財布のひもが開きっぱなし』」という状態とどこが違うのだろうと。

つまりこれって現代の依存症の一つなのではないかと。

たとえば、極端な話、最近言論の自由との関係でAV関連法とか話題になりましたけど、私はAV撮影そのもの非合法化するというのは「依存症の問題が存在する以上」無理なんじゃないかと思ってます。

非合法化しようとする人たちは「その必要がなければ誰もそんな仕事には走らない」と信じていると推察されます。そう、自分が依存症になんてならない、そのために莫大なお金を必要とすることなんてありえない「心がクリーン」な人々ばかりだと信じている。

自分が依存しているモノに対する対価として手っ取り早く稼げる手段が、つまりコストパフォーマンス、コスパ? いやタイムパフォーマンス? タイパですよ、それがかなりいい手段が性産業であるならば結局それを選ぼうとする人は、合法であろうと非合法であろうと後を絶たないように思います。女性のほうがそうした仕事の需要が多いようですから、結果的にそこで搾取されてしまう女性も多いのでしょう。

このように性産業をセイフティーネット扱いするものの言い方は唾棄すべきものだと思われて当然です。ですが、お金があればそれを生活よりも欲望のほうにつぎ込んでしまいたいがゆえに、「真っ当とは言い難い仕事」を選びたがる人というのは一定数いる。

人間の「心の弱さ」ってわかっているようで、みんなわかっていない。

たとえばAV撮影が非合法化されたら、逆にそれがゆえにさらに厳しい労働条件になるでしょうし、だけどそれがゆえに逆に金銭的な条件はよくなるでしょうから、むしろタイパがいいとしてやろうとする人も増えるかもしれない。そして無駄に傷ついていく。

心の弱さに、欲望にちゃんと向き合っている社会じゃないから。

私の住んでいる界隈はどうもホスト業や風俗業に携わっている人も多くいらっしゃるのか、コロナ元年の2020年の5月頃、義父の主治医だった地元の町医者から、すでにその業界でコロナ感染者が続出しているという話は耳にしていました。

ホストに貢ぐために風俗業に手を染めるという女性という話も今では知られていますよね。

でもきっとホストと呼ばれる仕事をしている男性たちも、一見華やかでお金なんて困ってないように見えるかもしれませんが、実は裏ではものすごく搾取されていて、女の人たちに払わせてる上がりのかなりの割合を元締めに持って行かれているのかもしれず、あの頃、コロナのリスクを承知で、あるいは「信じないようにして」ああやって誕生日パーティーやっていたのかもしれません。なんでそんなに5月生まれが多いの?と。

コロナは風邪だといってそれを信じてしまう人たちも、どこかで空虚感を埋めようとしてそういった言説に依存してしまう。現代のカルトと言われればそれまで。

 

そして私自身も。バンクーバー、ソチ、平昌、北京五輪と時が経つにつれて「やっぱりフィギュアスケートも生で見に行きたいじゃん。楽しみたいからショーがいいな」と思う回数が増えてきたんです。

平昌五輪のころからなぜか切れることのなかった書籍翻訳の仕事も最近やっと一段落して、時間ができたせいか、箍が外れたようにフィギュアスケート関連にお金を溶かしつつあります。なんか上手だなあと感心する選手たちの演技や動画や書籍に対しては惜しみなく金を払って見ておかないと、自分はファンとして楽しむのにふさわしい人間じゃないんじゃないかと思ってしまいがちになるんですよ。だって気がついたら私、鍵山優真の写真集持ってるんですよ。これ冷静になったらやっぱちょっとおかしいじゃないですか。鍵山正和先生と同い年の私が。

でもなあ、なんか買っちゃったんですよね。

それどころか新作発表の配信も買って見たよ。おおお、おれもロサンゼルスのスーパーにまた行きたい、などと思いながら。

そして今週末もまたショーを見に行く。

さらには浅田真央のBEYONDにもちゃんと抽選が通って行けますように。

 

 

そんな私と、祖母の真如苑のお施餓鬼お布施と母のアムウェイ狂いとどう違っていたのだろうかと、考えてしまうんですね。

 

 

何事もほどほどに。ちゃんと自分の身の丈にあった、そして私の場合は家族をまず大事にする生活をしなきゃいけないと思いました。なので、やっぱりアイスショーとか競技を見に行くなら私は一都三県からは外に出ない、出てはいけないのだ、出たら最後、血筋的にも依存症的なのでヤバい状況になる、だから出てはいけないととりあえず心に固く誓いました。

 

 

*1:要するにもろヤクザさん、指定暴力団関連とのおつきあい

*2:父も高卒のたたき上げで青年実業家としてまずお金を作った自営業者でしたし、母も高卒なので大学に行ったのは私が初めてでした。両親は大学=学歴の箔という以外には大学というものを理解していなかったと思います。

*3:だってそれこそ真如苑の信者とか紹介されたらたまんないじゃないですか

*4:このフランスの食文化にもファッションにも映画・文学、哲学、何もかも特段興味なかったところが私の翻訳者としてのフランス愛に決定的に欠けているところで弱みでもあり、引き受けて訳す本のジャンルがバラバラな理由なのでしょうね。なんというか他のフランス語翻訳者たちのこだわりとか供給のすき間を埋めていく仕事…

*5:横浜アリーナも新横浜プリンスホテルもスケートセンターもできてからまだ数年の頃。すでにこれまで書いてきたような生活をしていた私にはまったく縁がなかった。それでもフィギュアスケートはテレビで放映される分は見ていたし、あの伊藤みどりさんも新横浜にいるのかな?と…

*6:母はその頃から家事代行サービスの仕事をしていました。ちなみに私が今住んでいるあたり、つまり夫の実家のある界隈では共働きの高収入者が多いらしく、特に息子の保育園時代でしたかね、よくママ友さんたちに「少しだけでも代行サービス使えばいいのに、実は結構安いし楽になるよ」と言われました。でも私は母からその仕事のつらさをもう会うたびに、電話のたびに聞かされていたので、とてもそんな気ににはなれなかったし、かといって「私の母は家事代行サービスの仕事をやっているんだけど、しかもこの近所も職場の一つ」だなんて言えませんでした。